昨日NHK-FMの『邦楽百番』(土曜日11:00-11:50,再放送:日曜日5:00-5:50)で放送していた義太夫「假名手本忠臣蔵 早野勘平腹切の段」(太夫:竹本住大夫,三味線:野澤錦糸)を,MP3に録音し,今日にかけて繰り返し再生しました.
「早野勘平腹切の段」は,舅殺しの嫌疑がかかった勘平が腹に刀を突き通した直後,勘平の無実が証明され,臨終の際に主君仇討の連判状への血判がかなう,という「假名手本忠臣蔵」中の名場面のひとつ.中学時代に授業の一環で初めて見た文楽(人形浄瑠璃)の演目が,舅の死を扱った「二つ玉の段」であり,大学時代には文楽の松江公演で,住大夫さんと錦糸さんによる「夏祭浪花鑑(なつまつりなにわかがみ)」の切場を見たこともあって,くしき縁を思い出しつつ耳を傾けていたところです.
この3月,大社の地方公演で6年ぶりに生の文楽を見て,人形,太夫,三味線が織りなす人形芝居の妙を改めて認識しました.以来,ラジオで義太夫の放送をチェックしながら,次なる観劇の機会を待っています.
江戸時代の大坂弁を基調に,喜怒哀楽の感情をたっぷり込め,役柄に応じて声色を使い分けつつ,人間のあらゆる葛藤を語る太夫.三味線の中でも最も低い音域を奏でる太棹の,腹の底にズシリと響く音.そうした音楽的な面だけを取り出しても,義太夫は充分な魅力をたたえています.
ただ,文楽という芝居を念頭に義太夫を聴く私としては,生きた人形が目の前にない以上,語られている言葉もひとつひとつ味わいたいものです.しかしながら,私の耳は太夫独特の節回しがスンナリ入ってくるほどには肥えていない.そこで,床本(ゆかほん)と呼ばれる義太夫の台本がweb上で手に入る作品に関しては,モニター上の床本に目を通しながらラジオを聴いています.
床本というのは,本来は太夫が舞台で使用する肉筆の本を指すようですが,文楽公演で配られるパンフレットにも「床本」と題して,上演する狂言(演目)の台本を全文掲げていますから,とりあえず床本と称しておきましょう.最近は,床本に限らず日本の古典文学のテクストを,web上で多く目にするようになり,便利になりました.今回聴いた「早野勘平腹切の段」は,豊竹咲甫大夫さんのサイトを参照しています.
それはとは、それはとは、エヽわごりよはなう。隠しても隠されぬ、天道様が明らかな。親仁殿を殺して取つたその金や、誰に遣る金ぢや。聞こえた。身貧な舅、娘を売つたその金を、中で半分くすねておいて、皆遣るまいかと思ふてコリヤ、殺して取つたのぢやなア。今といふ今迄、律儀な人ぢやと思うて、騙されたが腹が立つわい。エヽこゝな人でなし、あんまり呆れて涙さへ出ぬわいやい。なう愛しや与市兵衛殿、畜生の様な婿とは知らず、どうぞ元の侍にしてやりたいと、年寄つて夜も寝ずに、京三界を駆け歩き、珍財を投げうつて世話さしやつたも、かへつてこなたの身の仇となつたるか。飼ひ飼ふ犬に手を喰はるゝと、ようもようもこの様に、惨たらしう殺された事ぢやまで。コリヤこゝな鬼よ蛇よ、父様を返せ、親仁殿を生けて戻せやい。
勘平に夫を殺されたと信じて疑わない姑の嘆きが上の引用ですが,現代人の我々の心を直接にえぐるような言葉を連ねているわけです.今日,文楽が世界無形遺産に選ばれるまでに世界的な評価を得たのには,言葉の壁を打ち破って世界中の人々に感動をもたらす何ものかがあるからだとは思いますが,せっかく日本語を使って日々暮らしているのですから,その“特権”を生かして,言葉の面からも文楽を愉しみたい.もっとも,生の舞台を前にしながら床本に目を落とすというのは,もったいないことこの上なし.これはあくまでも,ラジオならではの義太夫鑑賞法です.
なお,文楽はすべての演目が義太夫によって進行しますが,歌舞伎にも義太夫(歌舞伎では「竹本」と言います)を伴う「義太夫狂言」と総称される演目がありますし,ほとんどの場合が人形や役者を入れない素浄瑠璃(すじょうるり)と呼ばれる形態で演じられる女義太夫も,根強い人気を誇っています.しかし私のように人形芝居の戯曲として義太夫を味わおうとする者にとっては,人形がいきいきと動くさまが目に浮かぶという点で,女義太夫よりは男の太夫による語りの方がしっくり来ますし,情景描写からすべての登場人物のセリフの語り分けまでひとりでこなす語りの迫力という点で,歌舞伎の竹本よりは文楽の義太夫に魅力を感じます.そのようなわけで,私がラジオで聴くのは主に文楽の演者による義太夫です.