2009年9月22日

熊本城

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熊本2日目。この日は市内の小泉八雲の旧蹟を巡る予定ですが、その前に短時間でも熊本城くらい見ておこうと、路面電車に揺られて出発します。

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やっとこさ二の丸広場にたどり着いたって感じです。堀をはさんで本丸の天守と宇土櫓が見えます。石垣の長大さ、堀の広さ。

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創建当初から残る唯一の櫓・宇土櫓。全国の近世城郭で現存する天守のうち、姫路城に次ぐ2番目の規模だという松江城の天守を小ぶりにしたような感じです。地上5階、地下1階といいますから、これだけで天守並みの規模は充分にあろうというもの。加藤清正、がんばっちゃいましたね〜。

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近年復元された本丸御殿。玄関が自動ドアにガラス張りだったり、見学通路に毛氈が引かれていたりと、往時の空間を思い起こすには、来場者側がいくらか想像力を働かせなければならないのですが、大広間の最上段、この「昭君の間」は何も余計なことを考える必要がありませんでした。政略結婚で漢から匈奴へ嫁いだと伝わる王昭君を描いた障壁画と、色とりどりの花々が描かれた格天井に囲まれた、大河ドラマで見る大坂城や聚楽第さながらの金ピカ極彩色ぶり。それもそのはず、豊臣恩顧の加藤清正、万一豊臣徳川の合戦とならば、この城に主君豊臣秀頼を迎え入れる心積もりであったという説が伝わっています。加藤清正、がんばっちゃいましたね〜。加藤氏改易後に移封されてきた細川氏はビビッたかも知れませんが。「維持費かかりそうだニャ」とかボヤいたかも。

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天守は戦後に鉄筋コンクリートで外観復元されたもの。創建当初の天守は、西南戦争のときに焼失しましたが、原因については諸説あるそうです。

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天守1階はこうなってました。石垣を背景に戦後モダニズム的な柱梁が組まれています。

上の階は、加藤氏、細川氏の治世、そして西南戦争に関する展示がありましたが、それ以上に目を引いたのが、熊本城復元の基金に寄附した「一口城主」の芳名板。1階から展示各階まで、おびただしい数でした。本題の展示よりも印象に残ってるような勢い(汗)。

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本丸を出て、こちらは三の丸に移築復元された旧細川刑部邸。藩主一門の下屋敷だけに、それなりの大きな屋敷ですが、金ピカ御殿を見たあとですから、だいぶ質素な作りに見えます。

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こういう中庭を見ると、何だかほっとします。ちょうど雨上がり、青葉が映えます。

.....という具合に、かけ足で巡ってきましたが、いやー、さすが肥後54万石の城だけあって、......広いっっっ!! そりゃ学部時代は近世城下町の研究なんてことを考えたことある身ですから、相応の覚悟はしてましたけど、......それでも広い。本来なら隅々まで歩き回るのに1日かけてもよいところです。今度行くときはきっとそうします、ハイ。

2009年9月 6日

《ハナヱ・モリビル》:建築の命短し?

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撮影:2006年10月

1度前を通りかかったことがあるだけの表参道の《ハナヱ・モリビル》です。ファッションは時代の鏡、とでも語りかけるかのようにミラー・ガラスでファサードを埋め尽くしながら、(写真からはわかりにくいですが)正面に深い谷間のように奥へと切れ込むピロティを持ち、街行く人を誘い込むかのような仕掛けが目に入ったものでした。

この建物、私が生まれた翌年の1978年に竣功した、まだ"アラサー"というのに早くも建て替えの動きがあるとのこと。

所有者からの公式発表はないようなのですが、いくつかブログを検索してみた限りでは、数年前からウワサにはなっていたようです。

設計が丹下健三なので思い出したことがあります。1991年に現在の《東京都庁舎》が竣功した後、同じ設計者による旧都庁舎(竣功1957)が解体されました。そのことを知ったのはいつであったか、記憶がはっきりしませんが、建築の命は設計者よりも短いのか、と思ったことだけは、なぜかよく覚えています(岡本太郎の壁画もろとも姿を消したと聞いたからかも知れません)。

2008年5月 2日

出雲大社の本殿が59年ぶりに一般公開なので行ってみる

出雲大社では,このほど60年に1度の遷宮のため,御神体が本殿から仮本殿(拝殿)に遷されましたが,そうして現在はいわば「留守宅」になってる本殿が,特別に一般公開されています.行ってきました.

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着いたときには仮本殿(拝殿)の脇で,石見神楽を奉納中.益田市美都町からやってきた丸茂神楽の「鍾馗(しょうき)」.

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仮本殿(拝殿)には立派な扉ができて御簾も下り,「仮」でありながら,いかにも本殿らしい体裁に.

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連休を避けて出かけたとは言っても,それなりに人は押し寄せていました.30分は行列して待ちました.最後の公開期間が8月に予定されていますが,そのころ行ったらエラいことになりそう(アタシャたぶん倒れます).

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「留守宅」でも本殿ということか,服装もそれなりにしなければいけない模様.実際,係の人に止められて,列に並べなかった人たちもいました.

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日付入りの拝観記念証とパンフレット.記念証の図版は,本殿の天井画「八雲之図」の写し.

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本殿へ通じる八足門から先は写真撮影不可ということで,この写真は瑞垣の外から撮影.本殿を囲む縁に並ぶ大勢の人々と比べると,この社殿の大きさがよくわかります.本殿の高さは,屋根の上で×の形に組まれた千木を含めて約24mといいます.

今でこそ,高層のコンクリート建築がそのあたりにゴロゴロしていますから,この程度の規模の建物なんて,珍しくもナンともないようにな気もしますが,木造建築,神社建築の範疇でとらえると,やっぱりバカデカい.本殿の扉に続く階段の下から見上げると,天に向かってそびえ立っているような印象を持ちました.

そして,本殿を囲む玉垣と瑞垣という二重の垣と本殿との距離感.普段は神職など限られた人々しか出入りがないと思われる空間がたっぷりとられて,本殿を取り巻く環境が静けさを保っている様子を確かめることができました.PAを通していた瑞垣の外の神楽の音はよく届きましたが,雑踏はほとんど遮断されていました.

神体が本殿にある常の姿ならば,本殿を取り巻く環境は,一段と静謐に保たれていることでしょうが,そのように想像させるには充分な機会でした.

縁を1周して,扉と蔀(しとみ)戸を開け放った本殿正面の縁に座り,神職さんの解説を聴きました.天井画の「八雲之図」もここから見ました.「八雲之図」は,現在の本殿が延享元年(1744)に造替されて以来,手が加えられることなく今日に至っているとの説明がありましたが,260年の歳月を感じさせないほどの極彩色で描かれていました.

現在の公開期間は6日(火)まで,その後,5月13日(火)--18日(日),8月1日(金)--17日(日)にも公開されるそうです.今月中にせめてもう1回,行きたいところですが,どうなりますやら.

2008年2月 7日

《東京中央郵便局》

昨日《大阪中央郵便局》の話で触れた,《東京中央郵便局》の写真も出しておきましょう.設計は逓信省営繕課の吉田鉄郎,大阪の局舎より8年早く,1931年の竣功です.架構の美が前面にあらわれている《大阪中央郵便局》に比べると,柱梁のグリッドというよりは壁のグリッドに近く,折れ曲がる道路に面した部分の曲線的な処理にやわらかな印象があります.

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撮影:2000年

2008年2月 6日

消滅の危機にある《大阪中央郵便局》

1920年代に流行した「分離派」の建築,1930年代に擡頭したモダニズム建築の牽引役であった逓信省営繕課.中でも中心的な役割を果たした吉田鉄郎(1894-1956)の代表作が,東京駅前と大阪駅前という日本の二大都市の玄関口に建つ郵便局,《東京中央郵便局》(1931竣功)と《大阪中央郵便局》(1939竣功)です.現在,両局舎ともに再開発の計画が持ち上がり,存続が危ぶまれています.

今日はこういうニュースが出てきましたので,《大阪中央郵便局》の話を少し.

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撮影:2000年3月

中国で戦線が拡大していた時節柄,防空のために採用されたと言われる外壁のタイルの灰紫色が,いささか地味な印象を与えるのは否めませんが,立ち止まって観察すると,柱と壁梁のグリッドだけで構成されたと言ってもよい架構の美を見いだすことができます.伝統的な木造の日本建築に見られるような,柱が壁面に表出する真壁構造を,鉄筋コンクリートとガラス窓で実現した,日本のモダニズム建築の名作に数えられています.実際に局舎の前に立ちますと,当時のコンクリート建築にしては重厚感や威圧感はなく,軽快な印象がありました.ちなみに真壁構造に対して,外壁で柱を隠したのが大壁構造です.

グリッドの中を満たすガラス窓をよく見ると,階を重ねるごとに窓割りの比率が5,4,3,2と規則的に変化しています.比例の美とリズミカルな美が共存しているわけです.

これほどまでにシンプルなファサードを持つ大建築はまだまだ少数派に属してはずの1930年代,商都大阪といえども,この局舎の出現は鮮烈であったろうと想像します.1930年代を象徴する大阪の顔のひとつとしても,日本におけるモダニズム建築の時代の幕開けを告げた記念碑としても,《大阪中央郵便局》の存在は顧みられてもいい.そんなことを思います.

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2008年1月 2日

エットレ・ソットサスさん死去

2000年に丸亀市猪熊弦一郎現代美術館で開催された「建築からグラフィックまで エットレ・ソットサスと仲間たちの軌跡 1980/1999」に行きました.木,石,ガラス,プラスティック……あらゆる素材が,ときにはひとつの色に包まれ,ときには素材そのままの色で,面として切り取られる.それらをさまざまに組み合わせることで生まれた建築空間やプロダクト.大胆にして鮮烈でした.試しに,Googleで「Ettore Sottsass」を画像検索してみるだけでも,素材と色とかたちのマジックの一端がわかると思います.

巨匠エットレ・ソットサス (20世紀の巨匠たち)
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2007年12月 6日

いずもる「電車でチャリ旅」取材から1年

島根県立古代出雲歴史博物館の姉妹サイト「いずもる」に,ワタクシはデザイン・スタッフのひとりとして参加したほか,「電車でチャリ旅」という企画の元ネタを出したという話を,以前少し書きました.その取材から,ちょうど1年がたちました.観光にはちょこっと寒い時期だったんです,ハイ.

元ネタを出した名残で,大社町内の取材に同行,「グラフィックデザイナーの石川さん」が登場して建築案内となりました.

出雲大社前駅のステンドグラス

《一畑電鉄出雲大社前駅》《旧JR大社駅》《出雲大社庁の舎》を取り上げたのは,古代出雲歴史博物館の存在によるところが大きいのです.

博物館には,1927年に製造された一畑電鉄の旧車輌の一部と,2002年に解体された《一畑電鉄松江温泉駅》(1927)の部材を用いて再現された改札口が常設展示されています.博物館を出て,出雲大社への参詣道である神門通りを南下すると,かまぼこのようなドーム屋根とステンドグラスが印象深い《一畑電鉄出雲大社前駅》(1930/登録文化財)があらわれ,やがて,かつての町の玄関口にふさわしい威容を伝える和風駅舎《旧JR大社駅》(1924/重要文化財)に至ります.地域の鉄道にまつわる博物館の展示と,町内に残るふたつの鉄道遺産.これらをつなぐことで,鉄道をテーマとした大社の旅のプランが提案できると考えました.

一方,《出雲大社庁の舎》(1963)は,現代日本を代表する建築家のひとりである菊竹清訓の名作です.菊竹と同世代の槇文彦の最近作としての《島根県立古代出雲歴史博物館》(2007),そして文中には登場しませんが,菊竹,槇より若い世代を代表する伊東豊雄の《大社文化プレイス》(2000)とあわせて,現代建築をテーマとした旅を想定して,紹介したいと思いました.

ま,要するにワタクシの趣味丸出しのプランということになるわけですが(笑),そこらへんの観光ガイドブックに出てこない切り口で旅のプランを提案するのが「いずもる」の役目のうちなので,その意味では悪くない目のつけどころかと.

もちろん,大社の建築といえば《出雲大社》を忘れてはなりませんし,古い社家町や門前町,稲佐の浜にほど近い漁師町など,ほかにも見どころは数々あります.そのあたりのこととなると,ワタクシもまだまだ知らないことだらけですから,これからボチボチ探検しながら,別の機会に紹介したいところです.

2007年11月23日

赤い殿堂,グラントワ

さらに続くグラントワのネタ.

中庭の写真

赤い石州瓦が用いられること,屋根に12万枚,壁に16万枚という(内藤廣「建物は街に語りかけている」『島根県立石見美術館コレクション選』2005).赤瓦の家並みが多い石見でも,ひとつの建物にそんなにたくさん使った例はほかにあるまい.そもそも壁までも赤瓦で覆うというのだから,用い方から独創的.さながら赤糸で威(おど)した大鎧(おおよろい)のごとし.職員さんによると,瓦の色は6色に分けられるとか.鮮やかな赤茶色もあれば,青く光るものもあって,瓦の群れが見せる表情は,均質化されているわけではない.

中庭から見た夜の回廊の写真

水盤を持つ中庭の地面を覆う煉瓦も赤ければ,中庭を囲む一面ガラス張りの回廊までも赤い.カリンの木であるという.

日が落ちて,ライト・アップされた中庭は,いよいよ赤く燃え上がる.水盤にもそのさまは映し出されて,厳島神社かとも見紛うほど.

夜の中庭の写真

2007年11月21日

グラントワのコンクリート壁をよく見ると

先週の益田行きの報告をしなければと思っているところですが,今日は写真を1枚出してみます.

今回,初めて《グラントワ(島根県芸術文化センター)》に行きまして,建物をじっくり見る機会に恵まれました.

島根県立石見美術館と島根県立いわみ芸術劇場を両輪とする複合施設.内藤廣の設計で2005年竣功.石見地方の家並みを彩る赤瓦を,屋根だけでなく壁面にも多く用いた建築ですが,コンクリート壁も随所で印象的な表情を見せています.

グラントワのコンクリート壁の写真

写真の通り,コンクリートの壁に木目がついているのです.おそらく木製の型枠の表面を押し当てたものと思われます.安藤忠雄の作品などで知られる打ち放しのコンクリートの硬質感とは異なる,やわらかな肌合いが感じられます.詳しく用例を調べたわけではありませんが,こういう処理は戦後日本のモダニズム建築でしばしば見られます.丹下健三《広島平和記念資料館》(1955)しかり,島根県内でも菊竹清訓《旧島根県立博物館》(1958)などの好例があります.

《グラントワ》ではこの木目のついたコンクリート壁が,美術館ロビーのアーチ状の天井をめぐり,劇場大ホールを長大な折壁となって覆い,ダイナミックな内部空間を作り出しています.これは一見の価値あり,です.

2007年10月19日

石見銀山の重伝建地区,追加選定へ

石見銀山のおひざもと,大田市大森町の重要伝統的建造物群保存地区の範囲が拡張されて,明治期以降に発展したという上佐摩下地区や,街並みの背後の山々も含まれることになったそうです.

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撮影:2006年(↓新聞記事の写真と同じ場所から撮影していますが,↑は自前の写真です)

京都などで名だたる庭園の借景となる山並みが,新しい高層建築の出現によって損なわれてしまった,あるいはそのような危機にある,といった話の枚挙に暇がない御時世ですから,今回の追加選定は,妥当かつ自然な流れによるものでしょう.

山並みと言っても,その役割は必ずしも借景に限定されるわけでもありませんしね.送り火で知られる京都五山が,洛中の人々の信仰の対象でもあったように,石見銀山に即して言えば,城跡や間歩(坑道),寺社などが残る山々もまた,町で暮らす人々の営みとともにあった存在です(報道によると石切場の跡も見られるそうです).より広い視野で石見銀山の景観を保全していく上でも,意義のある追加選定だろうと思います.

2007年10月15日

Casacast 表参道建築ガイド

昨日のにゅーすで,1年前に表参道で撮った黒川紀章《日本看護協会ビル》(2004)の写真を出したわけですが,このときの表参道建築めぐりの写真がいろいろありますから,気が向いたときに,今さらながら出していきたいと思います.当時はタヌキにゅーすが休止状態だったもので,ほとんどの写真がずっとお蔵入りしてたのです(今年8月に安藤忠雄《COLLEZIONE(コレッツィオーネ)》(1989)を出したくらいです).

その前に今日のところは,表参道行きのお供としてiPodに入れておいたPodcast「Casacast 表参道建築ガイド」を紹介します.これは『Casa BRUTUS』2006年4月号の企画として登場したものですから,本当は1年半前に取り上げなければいけなかったというツッコミは覚悟の上で(自滅).

「Casacast 表参道建築ガイド」のスクリーン・ショット

ひとくちに言えば,表参道にある13の建築作品についての音声ガイドです.対象作品の大半は2000年以降に竣工したもので,当時開館から間もなかった安藤忠雄《表参道ヒルズ》(2006)も,設計者の解説(開館記念の行事での挨拶からの抜萃)つきでしっかり紹介されています.さらに伊東豊雄,青木淳さんのインタヴューも.

収録されているトラックは以下の通りです.

「Casacast 表参道建築ガイド」のトラック一覧
  • 00 イントロダクション
  • 01 hhstyle.com原宿本店 設計 妹島和世
  • 02 hhstyle.com/casa 設計 安藤忠雄
  • 03 ディオール表参道 設計 妹島和世+西沢立衛/SANAA
  • 04 表参道ヒルズ 設計 安藤忠雄
  • 04s 表参道ヒルズ 解説 安藤忠雄
  • 05 日本看護協会ビル 設計 黒川紀章
  • 06 ルイ・ヴィトン表参道 設計 青木淳
  • 06s ルイ・ヴィトン表参道 解説 青木淳
  • 07 TOD'S表参道 設計 伊東豊雄
  • 07s TOD'S表参道 解説 伊東豊雄
  • 08 ONE表参道 設計 隈研吾
  • 09 ハナエ・モリビル 設計 丹下健三
  • 10 SPIRAL 設計 槇文彦
  • 11 プラダ・ブティック青山店 設計 ヘルツォーク&ド・ムーロン
  • 12 COLLEZIONE 設計 安藤忠雄
  • 13 岡本太郎記念館 設計 坂倉準三
  • 14 エンディング

案内役は,今や長寿場組『建もの探訪』の渡辺篤史さん.編輯スタッフによると「こちらで用意した原稿にもその場でコメントを付け加えてくれたり」(Apple)したとか.『Casa BRUTUS』 流であり,渡辺篤史流でもある,肩の凝らない味わいのある独特の建築案内になっています.BGMとして聴くにも楽しいです.音楽は一切ありませんが.

iPodやiTunesの画面では,建築それぞれの名称,設計者と竣工年,建物のイラストレイションがスライド状に繰り返し表示されます.写真は一切なし.これは実際に建築めぐりで試してみて,写真など細かなデータが表示されなくて正解でした.あまりいろいろな感覚をPodcastに向けてしまいますと,今いる空間,目の前の建物に注意が届かなくなってしまったことでしょう.

2007年10月14日

訪ねたことがある黒川紀章の建築

黒川紀章追悼企画ということで,訪ねた作品の写真があれば……と思っていましたが,案外なくて.

唯一出てきた写真が,ちょうど1年前に東京・表参道で通りかかった《日本看護協会ビル》(2004).

《日本看護協会ビル》ファサードの写真

一面のガラス張りに円錐状のタワーが埋め込まれるという,ソリッドなファサードなのですが,通りから少し引いたところに建物があるため,この写真で見るほどの威圧感はなかったです.

《日本看護協会ビル》オープン・カフェの写真

このとき内部には入る時間がなかったのですが,1階と2階は各種店舗や看護に関する展示場といった公開の施設が入居していて,「協会の建物」という面構えはなく,普通に表参道のお店という風体でした.

唯一ちゃんと見たのは,1997年に「ル・コルビュジエ展」のために出かけた《広島市現代美術館》(1989)くらいです.市街地の小高い丘を上ると,緑に囲まれて見えるのは,円形の広場を軸にして連なるアルミニウムの土蔵のような建物.樹木と金属,曲線と直線の対峙あるいは融合が見どころ.展示を見るにつれて,だんだん地下に潜っていったような記憶があります.

あとは数年前に大阪・御堂筋の《国立文楽劇場》(1984)通り過ぎたくらいです.《国立文楽劇場》は,今まで中に入ったことがないのがフシギなくらいですが,いずれ文楽ともども建物もしっかり見に行くことになるでしょう.

それから,これは実際には建てられなかったのですが,《京都駅ビル》の指名設計競技案(1991)も印象に残っています.京都という土地柄,羅城門をモティーフにした案が,他者の案にもいくつか見られたのですが,黒川案は高さが121mと,駅正面の《京都タワー》の131mに迫る勢いで,さながら巨大な凱旋門.その量感が京都の玄関口にふさわしいかどうかの議論は別にして,記念碑的な造型としては圧倒的な迫力がありました(あくまで模型の写真を見た印象ですが).

2007年10月12日

黒川紀章さん死去

東京都知事選や参院選への相次ぐ立候補が記憶に新しいため,「個性的な選挙運動をしていたオジサン」という印象しかない人もいるかと思いますが,例えば「戦後日本を代表する建築家20人」と選ぶと,必ず名前が出てくるはずのひとりが,黒川紀章という人です.

1960年代,菊竹清訓,槇文彦らとともに「メタボリズム・グループ」の一員として売り出されて以来,最近でも《国立新美術館》(2007)のような話題作を世に出すなど,50年近くにわたって活躍してきました.

代表作のひとつ,「カプセル」と称する個室140個の複合体である《中銀カプセルタワービル》(1972)は,「カプセル」ひとつひとつが交換可能なユニットになっていて,メタボリズム,つまり新陳代謝を促進するように計画されたビルディングで,メタボリズム・グループの金字塔と言うべきものではないかと思います.惜しいことに,今年になって建て替えが決まってしまいました.

2007年9月15日

日本の《国立西洋美術館》世界遺産暫定リスト入り

ル・コルビュジエが設計した東京上野の《国立西洋美術館》(1959)が,世界文化遺産の暫定リストに加えられることが決まったそうです.

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撮影:2000年10月

「そんな建物を世界遺産にって話,あったっけ?」というのが,大半の日本国民の反応かと思うのですが,この世界遺産登録への運動の中心を担うのは,実はフランスの政府.パリにアトリエを構えた20世紀建築の巨匠が世界各地に残した作品群を,「ル・コルビュジエの建築と都市計画」として国境を越えて登録しようというわけです.《国立西洋美術館》は,ル・コルビュジエが日本で唯一手がけた作品.弟子の前川國男,坂倉準三,吉阪隆正が設計に協力しています.

登録に向けて,日本の文化庁は《国立西洋美術館》を重要文化財に指定する方針とのこと.戦後モダニズム建築が重要文化財に指定された例は,わずかに2例.村野藤吾+近藤正志《世界平和記念聖堂》(1954)と,ル・コルビュジエから多大な影響を受けた丹下健三の設計による《広島平和記念資料館》(1955)が,ともに2006年に指定を受けたばかりです.

日本では,モダニズム建築,あるいは戦後建築に対する文化財としての評価が追いつかないまま,すでに数々の名建築が失われました.《国立西洋美術館》の世界文化遺産登録と重要文化財指定への動きが,幅広い層に対して,モダニズム建築,戦後建築への関心を呼び起こすきっかけになればと思います(なんだかマスコミみたいな話のまとめ方だニャ).

というわけで最後に,日本におけるモダニズム建築の調査・研究のために精力的に活動している組織をば御紹介↓

2007年8月22日

石原まゆみさんの「STORE ROOM」9月7日開店

松江・能を知る集い」のイラストレイション(2004-2006)をはじめ,いろいろオシゴト一緒にしてきた石原まゆみさんからDMが届きました.手芸素材やオリジナル・グッズを扱う,石原さんのお店兼アトリエが,9月7日(金)にオープンするという案内です.

ダイレクト・メイルの写真

サイトも新しくなりました.

サイトのスクリーンショット

場所は松江市白潟本町,1937年竣功の出雲ビル3階です.ここからどんな“チクチク,ワクワク”のまゆみわーるどが展開するやら,石原まゆみファンクラブ会員(自称)は楽しみにしています.

出雲ビル.撮影:1999年.今は「ラーメン」ののぼりや「クリーニング」の看板はありません(笑).


拡大地図を表示

2007年8月14日

「杉田かおるケーキ持ち逃げ事件」の現場

誤解のないよーにことわっとくと,新聞沙汰じゃなくて,TVの『ぴったんこカンカン』の中での話ナノダけど(笑),カンゲキのあまり食べるのを惜しんでウェディング・ケーキを持ち逃げした杉田かおる“ママ”を“薬丸ファミリー”が追っかけてた場所.コンクリート打ち放しの円筒形の通路……見覚えあるニャと思ったら,足もとに"COLLEZIONE"の文字が〜!!

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写真:2006年撮影(以下同じ)

去年10月に南青山と表参道の建築めぐりをしたときに,バッチリ押さえといた安藤忠雄設計の《COLLEZIONE(コレッツィオーネ)》(1989)なる商業ビルでござーますがな.直方体に大きな円筒をはめ込んだよーな外観に,一歩入ると螺旋状の通路やら階段の途中にいくつもの広場やらあったニャ.

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ひと昔前まで,東京で見学できる安藤建築と言えばコレだったノダけど,今じゃ《表参道ヒルズ》(2006)に《21_21 DESIGN SIGHT》(2007)にそれから……なんかエラい増えましてねん.

現代建築好きなら,こーゆートコロに反応しちっゃた同類も多いだろニャ,ってただそれだけのエントリー(爆).

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2007年8月12日

『つくる図書館をつくる:伊東豊雄と多摩美術大学の実験』を買ってくる

いずもる」の仕事でお世話になったita&co(愛称はイタコ)の長谷川直子さんが編輯に参加した『つくる図書館をつくる:伊東豊雄と多摩美術大学の実験』(鈴木昭+港千尋+多摩美術大学図書館ブックプロジェクト=編,鹿島出版会,2007)を,やっと手に入れました(買いましたよ〜←私信).

その本の写真

注文した書店にはひと月以上前に届いていたのですが(ヲイ),その書店というのが,島根三大暑がり+自動車で行くと乗り物酔いする+そもそも家中誰も自動車免許持ってないタヌキぼーやにとっては,この季節行きにくい場所にあるため,今ごろになって意を決した次第(爆).さすがにひと月以上取りに行かないのもどーかと思って(汗).

先日Podcastの話題として紹介した《多摩美術大学八王子図書館》のコンセプト・ブックとでも言いましょうか.建築書専門の出版社から出た本ですから,ハードとしての図書館の話もみっちりやっているはずなんですが,それに負けない勢いでソフトの話も濃厚なことになっている気配.

伊東豊雄建築設計事務所のスタッフによるカヴァーのイラストレイションは,図書館内部のスケッチです.でもよく見ると,描かれているのは「ペーパーハンガー」「見える閉架」といったフシギな名前がつけられたモノや空間ばかり.まるで「夢の図書館」のようですが,これを実際に建てて開館しちゃったというわけだから,頭の中は「?」でいっぱい,ポケットは虹でいっぱい(再生YMO??)……ただいまNHK-FM「小山田圭吾の中目黒ラジオ」聴きながら書いてます(意味不明).

というわけで,これから読みます(宣言).

つくる図書館をつくる―伊東豊雄と多摩美術大学の実験
鈴木 明 港 千尋 多摩美術大学図書館ブックプロジェクト
鹿島出版会 (2007/07)
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2007年8月 5日

安来駅まっぷたつ

新旧安来駅舎の写真

約1年ぶりでJR安来駅に下りたら,うわっ,駅舎がまっぷたつになってまんガナ(汗).

ちょーど駅舎の建て替え工事中で,旧駅舎を半分だけ残して,解体した半分の跡地に新駅舎を半分だけ先に建ててるトコナノダ.新駅舎は木造みたいだニャ.

2007年8月 4日

Podcastで多摩美術大学八王子図書館

デザイン誌や建築誌の最新号で取り上げない雑誌はなさそーな勢いで話題沸騰中なのが,先月開館した《多摩美術大学八王子図書館》.多摩美術大学のPodcast「tamabi.tv」もしっかり取り上げとります.

設計者の伊東豊雄と写真家の港千尋の対談と,工事の過程の定点観測映像を中心とする13分の動画.対談中に館内外の映像もいっぱい出てきますが,コンテンツ内で伊東が語る「内部と外部の連続感」が,320 x 240 pixelの小さなサイズの動画でもよく伝わってきて,ちょいとゾクゾクしました.対談場所が,カットによっては公園のあずまやに見えないこともない(笑).独特な形の雑誌書架のエピソードも興味深いものがあります.まだまだ鮮度のある話題ですから,あまりネタバレはしないでおきましょ.

あと,経理のヲノさん(この人,多摩美の先生なのね)の音楽もエエです.

2006年1月15日

『20世紀デザインヒストリー』

『20世紀デザインヒストリー』の画像

みなさま,謹んで新年のおよろこびを申し上げます.『たぬき家小春の懸賞生活』本年第1回目として御紹介いたします品はこちらの1冊.渡辺千春+サラ・ディズリー『20世紀デザインヒストリー』(プチグラパブリッシング,2005)でございます.

本書はその名の通り,20世紀のデザインの歴史を著したもので,日本語と英語の2言語で併記されております.20世紀を10年で区切った各章に,その年代を代表するプロダクトや現象について,カラー図版を添えて解説してあります.どの項目も1頁もしくは1/2頁をあててありますから,テンポよく読み進めることができるようになっております.

全体といたしましては,日本発のデザインに関する項目が占める割合が多いように見受けられます.柳宗理やウォークマンから,戦時中の国民服,電気釜,カップヌードル,ファミリーコンピュータといった「エ? これもデザイン史で取り上げるの??」と思わせるものまで,多岐にわたって取り上げられております.身近にありふれたモノでも,デザインの視点から見ることによりまして,普段とは違ったモノが目の前に浮かんでくるかも知れませんね.

デザイン史の本だけに,巻末には「グラフィック」「プロダクト」「ファッションと素材」「建築」「社会現象」の5項目を並列させた,35頁にわたるデザイン史年表つき.

20世紀のモダン・デザインを代表する書体と申してよろしいでしょう―Helveticaで欧文書体を統一するとともに,明快なグリッド・システムでレイアウトされたブック・デザインも見逃せません.

『たぬき家小春の懸賞生活』,今回はこのへんで失礼いたします.みなさま,ごきげんよう.

20世紀デザインヒストリー
渡部 千春 サラ ティズリー Sarah Teasley
プチグラパブリッシング (2005/09)

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2005年12月16日

北山殿

金閣で有名な鹿苑寺の境内から,室町幕府3代将軍・足利義満の山荘「北山殿」の遺構が出土したそうです(asahi.com).

京都市埋蔵文化財研究所の発表では,今回出土したのは回廊の一部と見られるとのことですが,その幅なんと4.2mとか.……広い.かと言って,殿舎と見ようとすると,随分狭いということになりそうですものね.

実は,北山殿を舞台にした小説の構想を,高校時代から持っています.鎌倉時代に栄えた公家で,義満以前に北山殿を営んだ西園寺(さいおんじ)家の盛衰を,義満の栄華と重ね合わせながら描く,といったものです.発掘調査報告書が出たら,小説のネタ求めて読んでみましょうか.

2005年11月25日

『鶴瓶の家族に乾杯』に登場した香川県中西部の古民家に見られる「青い模様」って?

長いエントリー名フォーッ!!

……えー,言ってみただけ(笑).レイザーラモンHGは流行語大賞もらえるんでしょか?

こちら本日バカ忙しい1日になってますけど,世間じゃ,

  • ココログに無料の新コース「フリー」登場
  • 京都南座に「鴈治郎改め坂田藤十郎」のまねき看板お目見え
  • 歌舞伎が世界無形遺産に
  • 山下毅雄さん(作曲家)死去
  • 「稲■メンバー」「旧■本派の滝■元会計責任者」「姉■建築士」に続いて報道各社が用いた「■泉狂言師」なるギコチない呼称

と,にゅーすのネタが多くて困るノダ(別に困らんでもええねん).そんな中,今日のネタは…….

番組予告で見かけたあるモノが気になってたNHK『鶴瓶の家族に乾杯』.香川県綾南町を,鶴瓶師匠とゲストの麻木久仁子さんが二手に分かれて旅する後篇ナノダけど,そのうち麻木さんが,町のいくつもの古民家の中二階に「青い模様」が入ってるのをフシギに思って,地元の人に訊ねてたノダ.

たぶん土壁を黒く塗ったんじゃないかって思われる,外観上は中二階を持つ(実際の内部は1階建てかも)農家.中二階部分の四隅に群青色の板状の装飾物が取りつけてあったり,窓の周りを青で囲ってたり,桁の部分を青く帯状に塗ってたり…….ところどころには,何やら白く描いてたり,紋様を浮き立たせたりもしてるノダ.

こーした「青い模様」のある古民家,タヌぼーも5年前に初めて四国行ったとき,香川県の丸亀から高松へ移動する列車の車窓からたくさん見かけたノダ.あの青いのはほかじゃ見たことないノダ,ナンの意味があるんだろ? ってずっ~と気になってたノダ.それで今夜の『家族に乾杯』に注目したワケでござい.

麻木さん,地元の人たち(ニャンと明治期に活躍した反骨のジャーナリスト・宮武外骨の子孫まで登場)に訊いてたけど,地元じゃあまりに当たり前のモノらしくて,これといった収穫なし.スタジオ収録部分になって,香川県立歴史博物館からの回答として,

  • 「青い模様」は香川県中西部の民家に見られる
  • 火事よけのまじないではないか
  • 波の模様が入ったものが多い

って解説が入ったノダ.てなワケで今夜もメモメモ.

でも,もーちょいと詳しいこと知りたいノダ.「青い模様」の形態や素材は一様じゃないみたいだから,それぞれどーゆー由来があるんだろ? そもそも「青い模様」を指す,決まった名称ってないのかニャ? それがわかりゃ調べようもあるノダけど.

2005年11月 3日

《京都御所》秋の一般公開

清涼殿の写真

《冷泉家住宅》(1790)の特別公開(タヌキにゅーす)に続いて,御近所の《京都御所》(1855)でも,恒例の秋の一般公開が昨日始まったそうで(asahi.com).今回は皇后宮常御殿(こうごうぐうつねごてん)も公開しているとか.普段は非公開の建物ですよね,確か.

先日の《冷泉家住宅》のにゅーすに出した写真,実は2001年秋の《京都御所》一般公開を見たあとに立ち寄って撮影したものです.平安時代の様式によって造営された大規模な宮殿と,近世のこぢんまりとした公家住宅とでは,同じ宮廷文化を伝える建築でも,まるで雰囲気が違っていて面白かったことを思い出します.今日は御所内の写真を1点お目にかけましょう.正殿に当たる紫宸殿(ししんでん)とともに,王朝文学を思い起こすのにはうってつけ,天皇の日常生活に用いられたという清涼殿(せいりょうでん)です.

写真:清涼殿(2001年10月撮影)

2005年10月25日

《冷泉家住宅》一般公開

ほんのこて,京都へ行きたか~.

ナゼか藩侯上洛の随行を志願する幕末の薩摩藩士の気分になって,NHK大河ドラマ『翔ぶが如く』(1990)仕込みのエセ薩摩弁で叫んでますけど(ワケわからん),《冷泉(れいぜい)家住宅》(1790)が一般公開されるってニュース(YOMIURI ONLINE)を見つけた以上,ナニかひと言書かないわけにはいきもはん(またエセ薩摩弁).ナンでも,京都古文化保存協会の秋の特別拝観の一環だそうです.

《冷泉家住宅》の塀の写真

期間
2005年10月28日(金)―31日(月)
拝観料
大人:800円
中高生:400円
問い合わせ先
京都古文化保存協会
電話:075-561-1795

今を去ること10数年前の中学時代だったでしょうか,『日本の旧華族たち』などというTVを見ていましたら,現存する唯一の公家屋敷を守る家ということで,冷泉家が紹介されました.公家というものは,明治期にことごとく東京に移住し,幕末まで公家屋敷が密集していた今の《京都御所》(1855;平安時代の様式による)周辺は,残らず「京都御苑」という緑地公園になったものと思い込んでいました.そんな私にとっては,維新後も京都に残った公家がいたということ,京都御苑の外という立地が幸いして近世以来の屋敷が現存し,今なお年中行事の舞台として用いられているということは,驚くべき事実でした.公家・大名出身の旧華族が今日も,家の行事や家業を大切に受け継いでいる様子は,番組全篇を通じてうかがわれたことですが,近世以前に建てられた邸宅ごと守り続けているのは,冷泉家のほかにはほとんどなかろうと思います.

しかも,冷泉家は歌人として名高い藤原俊成・定家父子の子孫の家系で,先祖の歌道と典籍を今に伝えているという点に,ますます興味を覚えました(小学5,6年には,定家が撰んだ『小倉百人一首』を暗誦したものでした).俊成・定家自筆の歌論書や日記,書き写した文学作品までも,「御文庫」と呼ばれるこの屋敷の蔵に現存していたとは.1980年の「御文庫」公開当時を知らず,古典文学について詳しい知識を持たない私でさえ,興奮させられる話です.

高校時代には学校の図書館で,冷泉為任(ためとう)監修『冷泉家の歴史』(朝日新聞社,1981)を繰り返し借りて読み,ブンゲエ部では近世の公家を主人公にした小説を書きました.大学に入ってからも,史料蒐集のため通った京都大学の建築系図書室から宿へ戻る途中,当時解体修理中だった《冷泉家住宅》の足場を夕闇に探りあて,出雲への帰途には福山の広島県立歴史博物館で開催されていた「冷泉家の至宝展」(1998)に立ち寄りました.2001年には《京都御所》の秋の一般公開に出かけた足で,解体修理を終えて間もない《冷泉家住宅》前に再び立ち寄り,土壁と瓦が真新しい塀の向こうで営まれる,折々の行事に思いをめぐらせたものでした.

最近でも,NHKラジオの『京都冷泉家の八〇〇年:和歌の心を伝える』という講座(2004)を,毎週愉しみに聴くなど,冷泉家への関心は絶えることがありません.

さて,公家の屋敷と言いますと,平安貴族の住宅の建築様式として知られる寝殿造のようなものを想像するかも知れませんが,時代は下って徳川時代,しかも冷泉家は中流の家柄ですから,写真や図面を見たところでは,わりとこぢんまりとしていて,数寄屋造を思わせる質素な住宅です.それでいながら,大小さまざまの規模の部屋が,襖を隔てて連続する様子や,来客用の大玄関に対して家内の者が用いた内玄関を隠すように立つ,立蔀(たてじとみ)という格子の衝立塀には,公家の屋敷らしい格式が感じられます.蔀はもともと寝殿造や社寺の建築に用いられた釣戸.私もいずれは屋敷の門をくぐり,立蔀に迎えられて公家文化の一端を体感したいものです.

写真:解体修理を終えて間もないころの《冷泉家住宅》の塀(2001年10月撮影)

京都冷泉家の八百年 ~和歌の心を伝える
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2005年10月 6日

出雲大社本殿,大改修へ

出雲大社本殿

今日も新聞記事から.島根県の出雲市っちゅーとこに住むタヌキにゃなじみの深~い国宝の《出雲大社本殿》が,2008年から大改修だって.檜皮葺(ひわだぶき)の屋根の葺き替えのほか,本殿を囲む大小の建築物の点検・修理もするって報道ナノダ.

大社の本殿って,二重の垣に囲まれてて,ふだんは神職や初穂料を納めた人じゃないと近づけないノダ.だけどそのおかげで,観光客でにぎわう境内にあっても,閑かなたたずまいを保ってるノダ.タヌぼーは出雲大社に行くと,垣の周りを1周しながら,本殿を遠巻きに見るのがお決まりナノダ.この楽しみがしばらくお預けになるノダけど,後の世にのこすこと考えると大切な作業だからさ,「こりゃ長生きして,改修後の姿を拝まなくちゃニャ」って気になってくるノダ(年いくつナンだか).

そーいや赤煉瓦の《東京駅舎》も,来年から屋根を竣功当時の姿に戻す大がかりな工事やるそーナノダ.日本列島の東西で,生まれ変わる名建築でっか.

写真:出雲大社本殿(2002年1月撮影)

2005年9月23日

《TIME'S》 第2回

《TIME'S》を設計した安藤忠雄という建築家の名は,1995年の春,東京都現代美術館で開かれたアンソニー・カロの彫刻展の会場構成と,阪神・淡路大震災の被災地に植樹するプロジェクト「ひょうごグリーンネットワーク」を通じて覚えたばかりだった.私が大学に入って間もないころのことである.

その年の夏の終わり,大学図書館で見つけた雑誌『太陽』1995年10月号の特輯は,「安藤忠雄:闘う建築のロマン」と題していた.安藤の代表作を建築家自身の解説とおびただしい点数の写真で紹介していたほか,安藤の半世紀,クライアントのインタヴュー,梅原猛や植田実らの寄稿などが掲載され,当時の安藤忠雄を知るには質量ともに充実した企画であった.

部屋の往き来には必ず中庭を通らなければならない《住吉の長屋:東邸》(1976),コンクリート壁に光の十字架を穿った《光の教会》(1989),蓮池を本堂の上にいただく《真言宗本福寺水御堂》(1991)など,意表をつくと同時に明快なコンセプトを持ち,土地や用途への深い理解を感じさせる作品が,ペイジを繰るたびに現れる.

中でも《TIME'S》に対して特別な印象を持ったのは,記事の見開き全面に広がる,高瀬川の水面に向けて開かれた広場の写真ゆえであった.そこに見えたのは,一般の市民と水辺との間に障壁として立ち塞がるという,それまでしばしば見聞してきた建築の姿とは全く逆の,一般の市民を水辺に引き寄せるための装置である,《TIME'S》においては,高瀬川の都市河川としては群を抜いて清らかに見える流れと,わずか10cm程度の水深を味方につけて,水面から10数cmの高さに広場を設けてあり,人と水との距離は限りなく近い(安藤によると,その実現までには行政と随分スッタモンダがあったらしい).雑誌には,川に入って遊ぶ子どもたちの写真も載っている.

特輯全体を通読した結果,「現代建築なんて無愛想なコンリートの箱ばかりじゃないか」という,当時私が持ち合わせていた認識は,いとも簡単に崩壊していった.そのなれの果てが,歴史学の研究室にいながら,モダニズム建築をテーマに卒業論文と修士論文を書いた我が身なのだが,とりわけ《TIME'S》については,当時の京橋川における水辺の景観の状況という比較の材料があったために,「現代建築再発見」の記念碑として,一段と印象深い存在となっている,

私が《TIME'S》を訪れたのは,1998年と翌99年の夏.ともに史料蒐集のため京都大学の建築系図書室に通う日々のことである.

TIME'S

写真:三条小橋から見た《TIME'S》(撮影:石川陽春,1999)

(まだつづく)

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2005年9月17日

《TIME'S》 第1回

建築家・芦原義信は,著書『続・街並みの美学』(1983)で,日本の都市空間のおいて水辺の景観の特徴を次のように述べている.

……「内から眺める景観」の原理が,「外から眺める景観」の原理より有利に働き,西欧の諸都市に見られるような水辺の美しいプロムナードで,景観を外から眺めて楽しむというようなことはあまりなかったのである.京都の鴨川べりを四条大橋から眺めてみると,料亭や食堂が水辺に密集して,外から眺めれば建物の汚ない裏側を眺めるような景観であり,とうてい,西欧の川岸の景観とは異なって見劣りがする.この料亭から鴨川ごしに「内から眺める景観」として鑑賞するならば,おそらくそれぞれ素晴らしい景観であることは疑いない.

私はこの言葉に符合する水辺の景観を,くしくも「水の都」と称せられる松江で見ることとなった.1995年に松江の大学に入学し,近世の城下町を自転車で行く日々を得て気づいたことのひとつが,堀に背を向けて建つ家屋や商店の多さである.今でこそ,観光遊覧船が就航してその乗り場や親水公園のような場が設けられ,市民や観光客が水際まで近づくことができるようになったカラコロ広場周辺の京橋川南岸も,10年前は川に向かって排水口を垂れる建物が並ぶ一帯であった.

もっとも「水の都」と呼ばれる以上,城下町であった往時をしのばせる水辺の景観は,そのような絶望的な眺めに独占されていたわけではない.城山を囲む堀と,石垣や緑樹との美しい対照や,湖面を赤く染める宍道湖の夕景の前では,京橋川の当時のありさまなど小事に過ぎないようにさえ思える.しかしながら,個人の所有に帰するばかりで一般の市民からは遠ざけられた水辺の景観が,これらの佳景に隣り合うように存在することは,「水の都」という名にとって決して望ましいことではないと思った(近年,宍道湖沿岸に高層マンションの建設計画が相次ぎ,景観論争の火種となっていることに触れても,同様の感を新たにする).

京都の高瀬川沿いに建つ《TIME'S》(第1期:1984,第2期:1991)という商業ビルの存在を知ったのは,このようなことをおぼろげながら考え始めていた矢先のことである.

(つづく)

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2005年9月 5日

「丹下健三DNA」@『Casa BRUTUS』

そろそろ10月号発売って時期だけど,『Casa BRUTUS』9月号が,タヌぼーの修士論文のネタのひとつになった丹下健三大特輯の特別号だったんで,今さらながら触れときますノダ.

とりあえずざっと第一印象.

  • 《国立屋内総合競技場(現・国立代々木競技場)》(1964)のまわりで牛の放牧かい(笑).やってくれるニャ,GROOVISIONS.でもナンデ牛??
  • インタヴューの顔ぶれと頭数……じゃなかった,人数多っ.藤森照信,森泉,槇文彦,谷口吉生,丹下憲孝,Giovanna G. Ferragamo,酒井順子,大谷幸夫,加賀まりこ,川添登……全部で25人前後出てるぞよ.でも,一番読みたかった磯崎新が出てへんの(シクシク).5月号の追悼記事読めってかい?
  • 跡継いだ丹下ジュニアがあちこち出没.特輯タイトルの「丹下健三DNA」ってそーゆーことでもあるワケかいな.「丹下建築100選」のうち“新生・丹下事務所”作品が15ってのは,いくらナンでも多いよーな.
  • その昔,《東京都庁舎(新宿)》(1991)か鈴木都知事(当時)がらみで週刊誌の新聞広告に出てた写真が,戦前の大礼服みたいなの着て文化勲章佩用してる姿だったんで,「ナンジャこの明治政府みたいなカッコしたジイサン???」って思ってたけど,今回の掲載写真のキャプションで10数年ぶりに疑問がとけたノダ.Academie de Beaux-Arts会員の正装だったのね.帯用の剣について,ええ話が載ってるノダ.
  • “ゴジラが壊した”なんて角度で,まともに丹下建築取り上げる雑誌なんて,めったにないだろニャ(笑).
  • 六角形+「丹」+日の丸の特輯ロゴがカワエエ.

タヌぼーが修士論文で取り上げた丹下作品は,日本建築の伝統を溶け込ませた1940-50年代の建築だったノダ.'50年代の建築界で起きた伝統論争が,当事者のひとりであーる川添登のインタヴュー(pp. 182-183)中心に取り上げられてるけど,丹下と日本建築の伝統との取っ組み合いって,モダニズム建築家たちが「建築における日本的なもの」論を打ち出した1930年代からボチボチ始まって,戦時中の《忠霊神域計画》(1942),《日泰(タイ)文化会館》競技設計1等当選案(1943)から戦後の《広島ピースセンター(現・広島平和記念資料館)/広島平和記念公園》(1955),《香川県庁舎(旧館)》(1958)へつながっていくノダ.だから,戦争をはさんだ時期にさかのぼった「丹下と伝統」の総括を読みたかったし,紹介してほしかったニャ.「衛生陶器」発言とか,「丹下健三伝説」(pp. 90-91)のネタにも事欠かないしね(ケッキョクそれかい?!).

それはそれとして,'50年代までばかり見てきたタヌぼーにとっちゃ,'60年代以降の作品,特に海外の都市計画の話ってのは,知らんことだけでオモロいノダ.この人《忠霊神域計画》や《広島ピースセンター》といった最初期から都市計画やってるノダ.日本初の本格的な“建築家兼都市計画家”として世に出てるノダ.

そーいや『Casa』が日英のbilingual issueになる9月号,ここ4年は毎年買ってるノダ.'02年と'03年は,そもそもタヌぼーが現代建築にキョーミ持つキッカケを作った安藤忠雄.'04年は修士論文のネタにした作品が満載のDOCOMOMO 100選ナノダから,手もとに置きたくなりますワナ.

Casa BRUTUS (カーサ・ブルータス) 09月号 [雑誌]

マガジンハウス (2005/08/10)
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