« しまね大田楽・真伎楽 | メイン | 卒煙式 »

2005年10月25日

《冷泉家住宅》一般公開

ほんのこて,京都へ行きたか~.

ナゼか藩侯上洛の随行を志願する幕末の薩摩藩士の気分になって,NHK大河ドラマ『翔ぶが如く』(1990)仕込みのエセ薩摩弁で叫んでますけど(ワケわからん),《冷泉(れいぜい)家住宅》(1790)が一般公開されるってニュース(YOMIURI ONLINE)を見つけた以上,ナニかひと言書かないわけにはいきもはん(またエセ薩摩弁).ナンでも,京都古文化保存協会の秋の特別拝観の一環だそうです.

《冷泉家住宅》の塀の写真

期間
2005年10月28日(金)―31日(月)
拝観料
大人:800円
中高生:400円
問い合わせ先
京都古文化保存協会
電話:075-561-1795

今を去ること10数年前の中学時代だったでしょうか,『日本の旧華族たち』などというTVを見ていましたら,現存する唯一の公家屋敷を守る家ということで,冷泉家が紹介されました.公家というものは,明治期にことごとく東京に移住し,幕末まで公家屋敷が密集していた今の《京都御所》(1855;平安時代の様式による)周辺は,残らず「京都御苑」という緑地公園になったものと思い込んでいました.そんな私にとっては,維新後も京都に残った公家がいたということ,京都御苑の外という立地が幸いして近世以来の屋敷が現存し,今なお年中行事の舞台として用いられているということは,驚くべき事実でした.公家・大名出身の旧華族が今日も,家の行事や家業を大切に受け継いでいる様子は,番組全篇を通じてうかがわれたことですが,近世以前に建てられた邸宅ごと守り続けているのは,冷泉家のほかにはほとんどなかろうと思います.

しかも,冷泉家は歌人として名高い藤原俊成・定家父子の子孫の家系で,先祖の歌道と典籍を今に伝えているという点に,ますます興味を覚えました(小学5,6年には,定家が撰んだ『小倉百人一首』を暗誦したものでした).俊成・定家自筆の歌論書や日記,書き写した文学作品までも,「御文庫」と呼ばれるこの屋敷の蔵に現存していたとは.1980年の「御文庫」公開当時を知らず,古典文学について詳しい知識を持たない私でさえ,興奮させられる話です.

高校時代には学校の図書館で,冷泉為任(ためとう)監修『冷泉家の歴史』(朝日新聞社,1981)を繰り返し借りて読み,ブンゲエ部では近世の公家を主人公にした小説を書きました.大学に入ってからも,史料蒐集のため通った京都大学の建築系図書室から宿へ戻る途中,当時解体修理中だった《冷泉家住宅》の足場を夕闇に探りあて,出雲への帰途には福山の広島県立歴史博物館で開催されていた「冷泉家の至宝展」(1998)に立ち寄りました.2001年には《京都御所》の秋の一般公開に出かけた足で,解体修理を終えて間もない《冷泉家住宅》前に再び立ち寄り,土壁と瓦が真新しい塀の向こうで営まれる,折々の行事に思いをめぐらせたものでした.

最近でも,NHKラジオの『京都冷泉家の八〇〇年:和歌の心を伝える』という講座(2004)を,毎週愉しみに聴くなど,冷泉家への関心は絶えることがありません.

さて,公家の屋敷と言いますと,平安貴族の住宅の建築様式として知られる寝殿造のようなものを想像するかも知れませんが,時代は下って徳川時代,しかも冷泉家は中流の家柄ですから,写真や図面を見たところでは,わりとこぢんまりとしていて,数寄屋造を思わせる質素な住宅です.それでいながら,大小さまざまの規模の部屋が,襖を隔てて連続する様子や,来客用の大玄関に対して家内の者が用いた内玄関を隠すように立つ,立蔀(たてじとみ)という格子の衝立塀には,公家の屋敷らしい格式が感じられます.蔀はもともと寝殿造や社寺の建築に用いられた釣戸.私もいずれは屋敷の門をくぐり,立蔀に迎えられて公家文化の一端を体感したいものです.

写真:解体修理を終えて間もないころの《冷泉家住宅》の塀(2001年10月撮影)

京都冷泉家の八百年 ~和歌の心を伝える
冷泉 為人
NHK出版 (2005/07/20)
売り上げランキング: 194,270

トラックバックURL

このエントリーのトラックバックURL:
http://ishikawakiyoharu.info/cgi-bin/mt/mt-tb.cgi/84