本から始める能楽鑑賞[1]
小学校に入る少し前のことではなかったかと思います.両親に買い与えられた『学習百科大事典アカデミア』(全23巻,コーキ出版,新訂初版1980)の1巻に,『国語辞典』がありました.その口絵のうちの1頁には,「文楽・歌舞伎」とともに「能楽」という項目が立ち,能の定義,「紅葉狩(もみじがり)」の舞台と「羽衣(はごろも)」のシテの写真,能舞台の平面図が掲げられていました.中でも「紅葉狩」の写真に映し出された,後シテ率いる鬼女軍団が,舞台中央から橋懸にかけてズラリと並ぶ場面は,左右非対称の舞台の形状が引き立って見え,強い印象を受けたものでした.
それにもかかわらず,祝日の午前中の能TV放送に見向きもしなかったのには,今となっては不思議でなりませんが,ともかくこの世に能というものがあるのを知ったのは,このような経緯でした.
小学4年になると,必修のクラブ活動がありました.私は希望空しく散って,百人一首のカルタ取りを覚えることとなりました.それがきっかけだったのでしょう,学校の図書室で,日本の古典文学のあらすじを児童・生徒向けに紹介する本のシリーズを読み始めました.その中に,『お能・狂言物語』(初版1956?)と題する1冊を見つけました.著者は野上彌生子(1885-1985).後に知りましたが,能楽研究でも知られる夫・野上豊一郎とともに,漱石に師事した作家です.
書名には「能楽」でも「能」でもなく,「お能」とありました.さらには「狂言」の2文字が続いています.しかしおそらく国語辞典の口絵で見た能のことだろう,祝日になるとノッポさんやチョーさんを中止にして放送する,にっくき(笑)能だろう,と直感したのかも知れません.何とも気になって手にとり,パラパラと頁を繰りました.
すると,「西王母(せいおうぼ)」「小鍛冶(こかじ)」「実盛(さねもり)」……といった曲の物語が,諸国の昔ばなしを集めた本のようにいくつも,やさしい言葉で続きます.とりわけ脇能物や,これに準じて祝言性の高い「小鍛冶(こかじ)」「羽衣(はごろも)」といった曲に,清々しい読後感を覚えました.
「しかしかえしたら,すぐ,それで天にあがってしまって,舞は見せてくれないでしょう.」
「うたがいぶかい心は,人間のもつもので,天人は,うそなどは言いません.」
きっぱりと決めつけられて,伯竜は,すっかりはずかしくなり,では,どうぞ,と言って羽衣をわたしました.
「羽衣」野上彌生子『お能・狂言物語』
そうした読んで心地よい物語が,舞台上でどのように演じられるものなのか? ということに初めて考えが及んだときこそ,祝日の朝のTVが待ち遠しくなった瞬間であったように思います.
(つづく)