松本侑子『赤毛のアンの翻訳物語』と私
先日,出雲市出身の作家・松本侑子さんの講演会に行って来ました.短篇「赤萩の家」(『引き潮』幻冬舎,2004)の朗読と,何でも『冬のソナタ』に刺戟されて生まれたという最新刊『海と川の恋文』(角川書店,2005)のお話が中心でした.私と同郷にして高校の先輩に当たる作家の近況に触れることができました.
1996年だったでしょうか,学生時代にも松本さんの講演を聴きに出かけたことがあります.その折の話題は,自らが手がけた『赤毛のアン』翻訳(集英社,1993)の舞台裏.当然ながら,作品と作者モンゴメリ,そして英語文学にまつわるエピソードもさまざま紹介されたわけですが,意外と多くの時間を割いて松本さんが話したのは,翻訳作業でPCやインターネットが大いに役立ったということでした.
1996年といえば,私が通っていた大学では,情報処理センターや附属図書館に,学生が利用することのできるインターネット端末が配備され,所属学科ではようやく「情報処理実習」という授業が必修科目になった年です(1995年に入学した私は,選択科目としてその授業を受けました).私自身は,大学では学生研究室の雑誌の編輯のために,PCをしばしば使う機会がありましたが,用途は専らワード・プロセッサーによる文書作成.自宅で,高校時代に買った専用機を用いるのと,さほど変わりません.また,インターネットに関しては,右も左もわからないまま,好奇心ひとつでwebブラウジングを始めたばかりでした.将来の卒業研究をはじめ私自身の生活で,PCやインターネットは具体的にどのように使えるものなのか,といったことには,いまだ具体的な展望を持っていなかったように思います.
その折節,松本さんの話は,文学や社会科学の分野におけるPCやインターネットの活用事例として,興味深く聴くことができました.詳細は,のちに『赤毛のアンの翻訳物語』(集英社,1998)として単行本化されています.
作中に多数潜む,シェイクスピアをはじめとする過去の英語文学からの引用を,CD-ROMやwebを検索して探り当てる過程.スキャナーとOCRソフトウェアを用いて,紙の文献をテキスト形式のデータに変換.テキスト・データ化された文学作品をFTPサイトからダウンロード…….時宜に応じたPCの環境の更新を含めて,“電子書斎奮闘記”が時系列で綴られた1冊です.PC/インターネットの1990年代を,作家の視点からとらえた記録としても読み応えがあります.
私は英語文学ではなく日本近代建築史を専攻しましたから,自分の研究に直接役立つことなど,まず書いてあるはずがないのです.しかしながら,1997年に初めてPCを購入し,インターネットに接続して以来,本書の内容には多くの点で共感してきました.初めてPCのパーツを追加したり,ソフトウェアをヴァージョン・アップするときの緊張感.活字文献を扱う者にとっては垂涎の技術と言うべきOCRの体験.あるいは,日本語で書かれた史料や,趣味として読む日本語の文学作品も,インターネットで公開されるようになればいいな,と近未来を夢想したものでした.
先日のタヌキにゅーすで,坂本龍一さんを通して初めてインターネットの存在を知ったということを書きましたが,自分が使う道具としてのPCやインターネットの可能性を明示してくれたのは,松本侑子さんでした.皮肉なことに,私の“電子書斎奮闘記”の序章と軌を一にして,小説をほとんど読まない歳月を送るようになってしまいましたが,「赤萩の家」という品のよい小説の自著朗読を聴くうち,新しい作品も手に取りたくなりました.その点において,著書を購入してサインをいただく間もないまま,講演会場を後にしなければならなかったのは惜しい限りです.
集英社 (1993/04)
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