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2005年11月19日

塩冶判官

外出の支度をしながら見ていた,ETV『日本の伝統芸能 文楽入門』再放送で,赤穂事件を扱った名作『假名手本忠臣蔵(かなでほんちゅうしんぐら)』を取り上げていました.歌舞伎の演目としても名高い『假名手本忠臣蔵』ですが,もとは人形浄瑠璃(文楽)のために書かれた作品です.

徳川幕府の治世にあっては,この事件を実在の人名を用いて劇化することがはばかられたため,例えば大石内蔵助は大星由良助(おおぼし・ゆらのすけ),萱野三平は早野勘平といった具合に,役名が置き換えられ,時代設定も元禄年間から南北朝時代に移されています.

さて,赤穂事件の発端となった,いわゆる松の廊下の刃傷事件の当事者である吉良上野介と浅野内匠頭.『假名手本忠臣蔵』ではそれぞれ高師直(こうのもろなお)と塩冶判官高貞(えんや・はんがん・たかさだ)の名で登場します.師直も判官も実在した人物で,師直は足利幕府初期の執事,塩冶判官は婆娑羅大名として知られる佐々木道誉と同族にして,出雲国の守護です.

『假名手本忠臣蔵』は刃傷事件の原因を,師直が判官の妻・顔世御前に横恋慕したことに求めていますが,この設定は,鎌倉時代末期から南北朝時代の動乱を描いた軍記物『太平記』から借用されたものです.『太平記』には,塩冶判官の妻は絶世の美女であると聞かされた師直が,判官の妻に横恋慕したことで判官との関係がこじれ,ついには判官に謀叛の罪を着せて自害に追い込む……というエピソードが盛られています.

その塩冶判官と塩冶一族のものとされる墓が,私が住む島根県出雲市の,その名もズバリ塩冶町にある古刹・神門寺(かんどじ)に現存しています.実は私の家が神門寺の檀家で,『假名手本忠臣蔵』も『太平記』も知らなかった幼少のころ,親に連れられ墓参りに行くと,明らかに昨今のものとは異なる様式の墓石を見ながら,「昔は塩冶って苗字があったノダニャ」などとつぶやいたものでした.

あいにく私は見る機会を逃してしまいましたが,先日,神門寺にほど近い塩冶コミュニティセンター(公民館)で,出雲市出身の漫画家・平野勲さんの筆になる,塩冶判官の生涯を描いた絵巻『出雲塩冶太平記』の披露と一般公開があったそうです(山陰中央新報).塩冶判官は著名な古典文学・藝能の登場人物としては名高い一方,実像が今ひとつよくわからない人物であり,ゆかりの地である塩冶地区でもその名をあまり知られていないのではないかと思います.そのような中で塩冶判官が,ほのぼのとした筆致で賑やかな祭の絵を多く手がける平野さんの手で,どのように描かれているものなのか興味あるところです.

かく言う私も,中学時代に在籍した美術部での最終作として,出雲市内に来演した松竹の歌舞伎が上演した『假名手本忠臣蔵』「判官切腹」の段までを,登場人物に南北朝時代の装束を着せて描いたことを,このにゅーすを書くうち思い出しました.今となってみなくても正視に堪えない仕上がりのため,世間さまには決してお目にかけられたものではありません(笑).当時の私を知る人ならば,私が今デザイナーとして振る舞っているなどと,にわかには信じられないはず.自身でさえ,こうなるとは予想もしなかったのですよ…….

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