« amazlet | メイン | 《京都御所》秋の一般公開 »

2005年11月 3日

「女性美の追求」展に行く

展覧会のポスター,チラシ,チケットの写真

先日紹介しました「女性美の追求」展に,昨日行ってきました.

奥行きのある細長い展示室の入口で出迎えたのは,昭和戦前期の資生堂パーラーのメニュー,ティー・セット,銀器(!!)の数々.メニューは日仏または日英の2言語を併記.ティー・セットには花椿のロゴがあしらわれているのはもちろん,銀器の茶こしに至っては花椿そのものをかたどっているのはさすが.これらの食器を手にとってフランス料理を味わう,モボモガの姿が思い浮かびます.

展示内容は,

  1. 明治の銀座通りと資生堂の創業:文明開化と洋風調剤薬局
  2. 高級化粧水「オイデルミン」と日本的香水:ハイカラな化粧品
  3. 資生堂スタイルの創造:意匠部のモダンなデザイン
  4. 資生堂ギャラリーと資生堂パーラー:文化支援(メセナ)と銀の食器
  5. 福原信三と写真芸術
  6. 化粧道具の変遷:鏡と鏡台の移り変わり

といった構成で,資生堂の歴史の中でも,資生堂が化粧品ブランドを確立し,あわせて幅広い文化活動に進出した時期,言わば“福原信三の時代”に焦点が当てられていました.

資生堂パーラーの食器とともに資生堂らしさをよく知ることができるのは,やはり化粧品のパッケイジやポスターでしょう.“福原信三の時代”,すなわち大正・昭和戦前期は,アール・ヌーヴォーと呼ばれるデザイン・スタイルの日本における全盛期に重なり,植物的な曲線美や単純化された色面といったアール・ヌーヴォーらしい表現が,パッケイジのデザインにふんだんに投入されています.その代表は何と言っても花椿の企業ロゴですが,日本の花のイメイジで調合した香水のシリーズ(大正期)の瓶に金箔の線であしらわれた花の意匠,前田貢が手がけた「ドルックス」ブランド(1932)の,銀地に黒の唐草模様にも,共通したデザイン感覚を見てとることができます.

アール・ヌーヴォーからその後に続くバウハウス流モダニズムを思わせる,シンプルな線と面によって表現された女性像が,ポスターのメイン・ヴィジュアルを務めるのも,この時期の資生堂デザインの大きな特徴と言えるでしょう.当時ポスターに描かれる女性像の主流だった伝統的な美人画との鮮やかな対照.時代の最先端を切り開く女性の姿が浮かび上がり,興味深いものがありました.

こうした広告デザインを手がけたのは,社内に1916年に設置された意匠部に所属するデザイナーたち(川島理一郎,矢部季,前田貢,沢令花,山名文夫ほか)でしたが,日本企業が広告デザイン専門の部署を持つ例としては,最も早い時期のものではないでしょうか.しかも福原信三は自分のデスクを意匠部に置いたというのですから,資生堂がいかに広告デザインの重要性を強く認識していたかがうかがわれます.だから,“福原信三の時代”の資生堂は面白い.

この日は資生堂名誉会長の福原義春さんの講演会があり,オバサマやらおねーさまやら,スーツ姿のオジサン集団やら,デザイナーとおぼしき人やら観光客やら,なんかよくわからない客層に混じって聴いてきました.展示ではほとんど扱われていない戦後から今日までを含む資生堂の歩みを,文化活動を中心に1時間でたどるというものでした.社内で物議を醸したデザインの話題もあり楽しかったのですが,中でも,過去の広告作品が美術館の展覧会に出品されることで,「商品の広告も,何十年か後には藝術作品として評価されるということを実感した.これを社会に還元していきたい」という意味の言葉は,歴史学で修士論文を書いた覚えのあるデザイナーである私にとって,いろいろと考えさせられるものがありました.私が書いた論文のテーマは,1930年代から40年代にかけてのモダニズム建築なのですが,今日ようやく歴史的存在として目が向けられるようになって評価が固まりつつある一方,老朽化や再開発の名のもと,失われゆくものも多い.広告にしても建築にしても,純粋藝術として扱われないがために,藝術的評価が後回しにされがちという事情があるのでしょう.そうした厳しい状況にあって,後世に伝えるべきものをいかに見極め,散逸を防ぎ,保存・活用をはかっていくか? ……歴史学は廃業したとは言いながら,決して無関心ではいられない事柄です.

なお,この展覧会の内容を知るには,資生堂サイト内の「資生堂ものがたり」が手がかりになるかと思います.

トラックバックURL

このエントリーのトラックバックURL:
http://ishikawakiyoharu.info/cgi-bin/mt/mt-tb.cgi/98