熊本2日目。この日は市内の小泉八雲の旧蹟を巡る予定ですが、その前に短時間でも熊本城くらい見ておこうと、路面電車に揺られて出発します。
やっとこさ二の丸広場にたどり着いたって感じです。堀をはさんで本丸の天守と宇土櫓が見えます。石垣の長大さ、堀の広さ。
創建当初から残る唯一の櫓・宇土櫓。全国の近世城郭で現存する天守のうち、姫路城に次ぐ2番目の規模だという松江城の天守を小ぶりにしたような感じです。地上5階、地下1階といいますから、これだけで天守並みの規模は充分にあろうというもの。加藤清正、がんばっちゃいましたね〜。
近年復元された本丸御殿。玄関が自動ドアにガラス張りだったり、見学通路に毛氈が引かれていたりと、往時の空間を思い起こすには、来場者側がいくらか想像力を働かせなければならないのですが、大広間の最上段、この「昭君の間」は何も余計なことを考える必要がありませんでした。政略結婚で漢から匈奴へ嫁いだと伝わる王昭君を描いた障壁画と、色とりどりの花々が描かれた格天井に囲まれた、大河ドラマで見る大坂城や聚楽第さながらの金ピカ極彩色ぶり。それもそのはず、豊臣恩顧の加藤清正、万一豊臣徳川の合戦とならば、この城に主君豊臣秀頼を迎え入れる心積もりであったという説が伝わっています。加藤清正、がんばっちゃいましたね〜。加藤氏改易後に移封されてきた細川氏はビビッたかも知れませんが。「維持費かかりそうだニャ」とかボヤいたかも。
天守は戦後に鉄筋コンクリートで外観復元されたもの。創建当初の天守は、西南戦争のときに焼失しましたが、原因については諸説あるそうです。
天守1階はこうなってました。石垣を背景に戦後モダニズム的な柱梁が組まれています。
上の階は、加藤氏、細川氏の治世、そして西南戦争に関する展示がありましたが、それ以上に目を引いたのが、熊本城復元の基金に寄附した「一口城主」の芳名板。1階から展示各階まで、おびただしい数でした。本題の展示よりも印象に残ってるような勢い(汗)。
本丸を出て、こちらは三の丸に移築復元された旧細川刑部邸。藩主一門の下屋敷だけに、それなりの大きな屋敷ですが、金ピカ御殿を見たあとですから、だいぶ質素な作りに見えます。
こういう中庭を見ると、何だかほっとします。ちょうど雨上がり、青葉が映えます。
.....という具合に、かけ足で巡ってきましたが、いやー、さすが肥後54万石の城だけあって、......広いっっっ!! そりゃ学部時代は近世城下町の研究なんてことを考えたことある身ですから、相応の覚悟はしてましたけど、......それでも広い。本来なら隅々まで歩き回るのに1日かけてもよいところです。今度行くときはきっとそうします、ハイ。